松永沼隈地区医師会

松永・沼隈の歴史

松永塩田

福山藩の近世初期家臣・本荘重政によって松永湾一帯に開発された塩田。1660(万治3)年春から干拓に着手し1662(寛文2)年松永新涯が完成。1960(昭和35)年の国策による一斉廃止までの約300年間、松永の基幹産業として栄え、廃止前には産出量2万2,000tに達していた。当時、松永塩業組合に加わっていた塩業者は48人、総面積は128haだった。
塩田跡は工業団地や宅地に変わり、その名残を見せる風景もほとんど無くなった。JR松永駅南口には元塩業関係者でつくる「松永塩友会」建てた、本荘重政の没後300年記念像がある。
片手に絵図面片手で松永湾を指す開拓を指揮する姿で、塩田発展の歴史を今に伝えている。

松永の下駄

松永で下駄作りが始まったのは明治時代初期。製塩業が栄えていた当時、塩を煮詰める薪を使って下駄を作ったのが始まり。これまでの「下駄は桐材」とうい概念を打つ破ったのが発展の要因。「松永下駄は安くて大衆向き」と、全国に広まり、その後全国に先駆けた機械化で、下駄作り日本一の地となった。ピーク時の昭和30年代には年間5,000万足以上以上製造していたが、近年では生活様式の変化や中国産の台頭により需要が低下。現在は年間100万足を生産、それでも全国生産量の60%を占めている。今では、その技術がサンダルやスリッパづくりに生かされている。下駄で栄えた松永町は歴史は「日本はきもの博物館」に紹介されている。
この特産品をテーマにしたイベント「ゲタゲタリンピック」を毎年9月中旬頃に開催しています。

沼隈町 【平家谷 福泉坊のしだれ桜】

高さ12M、横幅17Mの巨木。平道盛も菩提寺として福泉坊の境内にあり、約200年前に住職が植えたものとされる。山側の斜面に遊歩道があるので桜の木を高い位置から眺めることもできる。見頃の時期にはライトアップされ、幻想的な姿を見せる。

内海大橋

沼隈半島の先端・福山市沼隈町常石と内海町の田島を結ぶ橋で、1989年(平成元年)に完成。それまでフェリーに頼っていた本土との交通の利便性を大きく向上させた。全長832M。直線ではなく「くの字」にカーブしているのが特徴。二連のアーチからなる美しいラインが左右に広がる瀬戸の島々の優美な風情にとけ込んでいる。

<知っとる?ふくやまより引用>